駐日パレスチナ常駐総代表部
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Jerusalem エルサレム
概要
1947年の国連分割案
1967年の占領
人口統計の変化
東エルサレムに対する国連の見解
東エルサレムに対する米国の見解
東エルサレムに対するEUの見解
エルサレムに対するパレスチナ人の見解

概要
数世紀にわたり、エルサレムはパレスチナ人にとって地理、政治、行政および精神上の中心地であった。エルサレム市は、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の中心地であり、アラビア語の「Al-Quds」(聖なる都市)の名で知られている。(エルサレムの双方向地図)

1947年の国連分割案
大多数のパレスチナ住民の願いに反し、国連が1947年にパレスチナ分割案を可決した時、エルサレムとその周辺地域(南にあるベツレヘム市を含む)はパレスチナ国家、ユダヤ人国家のどちらにも配分されず、別個の存在として国際的な管理下に置かれることとなった。国連の分割案の定める境界線により、パレスチナ領土の約55%がユダヤ人国家に配分された。イスラエル国境として国際的に認められているのはこの境界線のみである。
1948年の戦争の際にイスラエルは分割案を無視してエルサレムに侵攻を企て、エルサレムの84%を占拠した。旧市街(1948年におけるエルサレムの国境地帯の11.5%)を含む残りの領地については、ヨルダン軍の働きによりイスラエルの占領を免れた。1948年におけるエルサレムの国境地帯の4.5%は「緩衝地帯」となった。
1948年にイスラエルに占領されたエルサレムの大半は「西エルサレム」として知られるようになり、同年、ヨルダンに占領された残りの領土は「東エルサレム」として知られるようになった。
西エルサレムに住んでいた約2万人のイスラム教徒とキリスト教徒は土地を追われ、それ以来戻ることができなくなった。

1967年の占領
1967年になると、イスラエル軍は東エルサレム、ヨルダン川西岸、ガザ地区を占領した。占領を開始して4日後に、イスラエル軍は旧市街にあるアラブの「マグラビ」地区を壊滅した。住民はわずか3時間前にその通知を受け、約6千人のパレスチナ人が家を失った。その場所には今日、嘆きの壁広場が建設されている。
パレスチナ人の領土を占領する意図を持たないという主張とは裏腹に、イスラエルは戦争終結後わずか数週間の内に一方的にエルサレムにおける国境地帯に侵攻した。この侵攻により、占領下のパレスチナ領土の1.3%が新たに拡大した「エルサレム市」に組み込まれ、東エルサレムの面積は以前に占領されていた前の10倍強の広さとなった。パレスチナの未開発地を組み込むような形で新しい境界線が引かれる一方で、パレスチナ住民の中心はその境界線の外側へ追いやられた。東エルサレムの人口構造を変える目的で、未開発地にイスラエル人による不法入植地が建設された。
1980年に、イスラエル政府は「基本法」を通過させることにより、占領した東エルサレムをイスラエルの管轄下に置こうと企てた。この併合の試みは、武力による領土の獲得を禁止する国際法に違反するものであり、国連の安全保障理事会により「法的に無効」であると宣言された。

人口統計の変化
1967年における占領以来、イスラエル政府は相互に関連する三つの政策を組織化することにより、東エルサレムの占領地におけるユダヤ系イスラエル人人口の増加を図る一方で、キリスト教系およびイスラム教系パレスチナ人の数を抑えようと努めた。その三政策とは、(i)東エルサレムにおけるイスラエル入植地の建設、(エ)東エルサレムに住むキリスト教徒およびイスラム教パレスチナ人に対する差別の実施、(オ)占領下のヨルダン川西岸およびガザ地区に残ったパレスチナ人に対するエルサレムの閉鎖である。
入植地(協定)。イスラエルは1967年の軍事占領開始後まもなく、ジュネーブ第4協定の定める占領地への一般市民の入植禁止に違反して、東エルサレム占領地にイスラエル入植地の建設を開始した。入植地の建設は今日に至るまで継続されている。イスラエル政府はイスラエル人に住宅補助制度やその他の優遇制度を与えることにより東エルサレムへの定住を奨励している。その結果、東エルサレムの定住者人口の増加は、1967年以来、ユダヤ系住民全体の人口増加の約80%にものぼる。不法入植地は今や市内の占領地域の周囲をリング状に取り囲み、東エルサレムはヨルダン川西岸の残りの地域から封鎖された(地図:イスラエルによるエルサレムの植民地化)。今日、40万人にのぼるパレスチナ占領地への不法入植者の約半数が、東エルサレムにおける占領地に定住している。
差別。1967年の占領以来、イスラエル政府とエルサレム市は「分離と不平等」の差別政策をとってきた。

*居住権:東エルサレムに住むパレスチナ人は、自身の町に住むために住民カードの所有が義務付けられている。東エルサレム占領地におけるイスラム教系およびキリスト教系パレスチナ人の人口を制限するため、イスラエルは東エルサレムのパレスチナ人から住民カードを剥奪する政策を積極的に実施してきた。イスラエルは、東エルサレムのパレスチナ人に対し、定期的にエルサレムが「生活の中心」であることを証明することを義務付けている。その結果、パレスチナ系住民がエルサレムの外部において学校に通ったり、仕事をする場合、居住権を失う危険を犯すことになる。今日に至るまで、7千人のパレスチナ人が居住権を失い、その他の数千人が居住権を維持するための法的申請書を提出することを強制された。一方、東エルサレム占領地に不法に居住するユダヤ系のイスラエル住民は、完全なイスラエル市民として、エルサレムにおける居住権を剥奪されることはない。

*建築の規制:差別的な区画政策により、パレスチナ人の土地所有者は自分の土地に建物を建設することや、既存の建物に部屋を増築することが極めて困難となっている。その結果、東エルサレムにおけるパレスチナ人の土地は、イスラエル入植地の建設のために没収されるまで空き地のまま残るのである。1967年以来、イスラエルは東エルサレムにおける土地の約34%を「公的利用」のために没収した。[1]それ以外にも、東エルサレムにおける土地の53%が入植地として確保されたり、「緑地」に指定されたりしている。[2]このため、東エルサレムのパレスチナ人は自国の土地のわずか13%において生活し、建物を建てる状況に甘んじている。他になすすべを知らずに無許可で建設を行ったパレスチナ人は、立ち退きと家の崩壊を余儀なくされる。1967年以来、東エルサレムに住む2千人以上のパレスチナ人の家がイスラエルの占領軍により破壊された。[3]

*税金:エルサレム(東西)の人口の30%以上を占めるパレスチナ人のエルサレム居住者は、エルサレムの社会サービス支出のわずか5‐10%を受けるにすぎない。2002年において、東エルサレムのキリスト教系およびイスラム教系住民はエルサレムの教育予算のわずか16.6%、健康関連予算の6.2%を受けるに留まった。[4]

*分離:1994年にオスロ・プロセスが開始されて以来、イスラエルはヨルダン川西岸およびガザ地区のパレスチナ人がエルサレムのすべての地域に入ることを禁止した。エルサレム市民以外のパレスチナ人がエルサレムに入ることを希望する場合、仮の許可証を利用しなければならないが、イスラエル当局がこの仮の許可証を授与することはごく稀である。このような閉鎖政策により、300万人を超えるキリスト教系およびイスラム教系のパレスチナ人が、宗教上の祝日でさえエルサレムにおける彼らの聖域に近づくことを拒絶される結果となった。同時に、経済、交通、文化の重要な中心地であるエルサレムがヨルダン川西岸の他の地域から切り離され、その結果、エルサレム市民以外のパレスチナ人が東エルサレムにある学校に通うことや、東エルサレムの病院でしか受けられない医療措置を受けることができなくなった。

*エルサレムの壁:2003年、イスラエルは東エルサレムの占領地の周囲を巡る壁の建設に着手した。この壁が真にイスラエルの要求する安全を目的としたものであるならば、イスラエルと東エルサレム占領地との境界線に建設されていなければならない。ところが、イスラエルは、エルサレムにおける境界線を一方的に拡張し、強制するために、占領したパレスチナ領土の内側に壁を建設し、東エルサレムがヨルダン川西岸の残りの地域からの孤立するように仕向けた。この壁により、東エルサレムの内部および周囲320キロメートル四方の領土(またはヨルダン川西岸の広大な地域全体の約5.6%)が事実上併合されることが予想される。(地図:東エルサレムの占領地におけるイスラエルの「防御壁」、2003年8月)

国際法と東エルサレム:「承認し難い武力による領土獲得」
国連憲章(第2条4項)の定める国際法の慣行は承認し難い武力による領土の獲得を否定しているため、結論的にイスラエルによる東エルサレムの併合と統治は国際法下で違法である。

東エルサレムに対する国連の見解
国連は、東エルサレムが(ジュネーブ第4協定の条項が定める)占領された領土であることを認め、その結果としてイスラエルの東エルサレムに対する主権要求を拒否している。

*イスラエルの他国の領土に対する占領に対し、1967年における国連安全保障理事会の決議242は、「近年の紛争で占領した領域からのイスラエル軍の撤退」を求めている。

*イスラエルのエルサレムにおける境界線の拡張に対し、1968年における国連安全保障理事会決議252は、「エルサレムの法的状況を変える可能性のある、イスラエルによるすべての行動は無効であり、状況を変えることは許されない」とする安全保障理事会の見解を表明している。

*東エルサレム占領地を併合するというイスラエルの試みに対し、1980年の国連安全保障理事会決議476は、「エルサレム市の性格と状況を変えることを意図するイスラエルと占領軍による行動は法的に無効であり、戦時における一般市民の保護に関するジュネーブ協定の決議に甚だしく違反するものである。同時に、この行動が中東における包括的で公平な恒久平和の実現を妨げる深刻な障害となっている」ことを再認識する安保理事会の見解を表明している。


東エルサレムに対する米国の見解
米国による公式の政策では、イスラエルの東エルサレム併合政策は認めてられていない。米国の公式な見解は1991年10月における「パレスチナ人への米国の確認文書」(マドリード平和会議における公式記録の一部)で述べられている。その一部を以下に引用する。
米国はイスラエルによる東エルサレムの併合、あるいはエルサレム境界線の拡張を認めない。同時に、米国は両国が地域の緊張状態を悪化させ、話し合いを困難にし、または最終的な結論を先取りするような単独行動をとることを避けるよう提言する。

東エルサレムに対するEUの見解
EUによる公式の政策は、東エルサレムを占領地と見なし、イスラエルの東エルサレムに対する主権要求を拒否している。1996年10月1日付けのEU閣僚会議による宣言において、EUは以下のような見解を表明している。
東エルサレムは、国連安保理事会決議242の定める、承認し難い武力による領土の獲得に関する原則に委ねられるべきであり、その理由からイスラエルの主権下に置かれるべきではない。EUは、それ以外の占領地に対する決議と同様に東エルサレムに対しても、ジュネーブ第4協定の採択を適用すべきであると主張する。

エルサレムに対するパレスチナ人の見解
イスラエルは東エルサレムの如何なる地域に対しても、1967年に占領した領土の一部としての権利を所有しない。東エルサレムは、先に居住していたパレスチナ人がイスラエルの撤退に伴い、主権を行使すべき領土の一部である。
国際法に従い、また暫定自治宣言で述べられているとおり、エルサレム全市(東エルサレムだけでなく)は恒久的状態についての交渉において議題として取上げるべきである。
エルサレムは開かれた都市でなければならない。エルサレム市内では、主権問題の解決の如何によらず、内部において人間の自由な循環を妨げる物理的隔壁があってはならない。
パレスチナとイスラエルは、聖地に対する礼拝と接近の自由を保障されるべきである。両国は上記の聖地および自国の尊厳を守るためにあらゆる可能な措置を講じる。
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