駐日パレスチナ常駐総代表部
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Q & A
01. アラブ‐イスラエル紛争とは何か?そして誰が紛争を解決すべきか?
02. パレスチナ国家案とは何か?
03. 東エルサレムおよび西エルサレムとは何か?
04. アラブ諸国はイスラエルの生存権を認めているか?
05. パレスチナ人のいる現在の地域は国家として適しているか?
06. パレスチナ人はなぜアルアクサ・インティファーダを始めたか?
07. 子供がなぜインティファーダに参加するのか?
08. パレスチナ人は何故インティファーダで武力を行使しているか?
09. パレスチナ難民問題とは何か?
10. パレスチナ人はなぜメディアによる広報活動に敗北したのか?
11. パレスチナの古代史はどのようなものか?
12. パレスチナの現代史はどのようなものか?
13. 1948年以前にパレスチナ国家が存在したのかどうか?
14. 1948年から1967年の間にパレスチナ国家が存在しなかったのはなぜか?
15. パレスチナ人はなぜイスラエルに対して武力を行使するのか?
16. パレスチナでは誰が最古で最長の歴史を有しているか?
17. アラブ諸国はなぜアラブ系ユダヤ人にイスラエルへの移住を強制するのか?
18. イスラエルは中東で唯一の民主国家であるというのは本当か?
          
アラブ‐イスラエル紛争とは何か?そして誰が紛争を解決すべきか?
A. 近代歴史の上でアラブ‐イスラエル紛争とは、ユダヤ人が段階的にパレスチナの地を不法占領したことを言う。第一段階は1948年で、 ユダヤ人はアラブ・パレスチナの土地の78%を占領し、ユダヤ人国家であるイスラエルを建国した。第二段階は1967年で、 その年イスラエルはアラブ諸国に対して侵略戦争を起こし、パレスチナの残りの領土すなわちヨルダン川西岸(東エルサレムを含む)とガザ地区を占領した。
1988年までに、パレスチナ人はPLOを初めいくつかの戦闘グループを設立し、合法的軍事闘争により自分達の土地を取り戻そうとした。
1988年、パレスチナ人は自分達の現状を実際的に解決しようと、大幅な妥協案を受け入れた。 すなわち、1948年に奪われたパレスチナ領土でのイスラエル人の虚偽の生存権を認める代わりに、1967年に起きたイスラエルによるパレスチナ領土の占領を廃止し、 そこにパレスチナ国家を樹立することを要求したのである。
パレスチナ人は自由を獲得し、領土の占領を終結させるために外交交渉、和平会談、公式の抗議など様々な戦略を試みた。 インティファーダも占領の継続に抗議する手段の一つである。
あらゆる試みを実行し、パレスチナ側からの譲歩を示した後も、イスラエルは1967年から続くパレスチナの領土への占領を解かなかった。 1993年以降、締結された平和協定の一環として、ガザ地区とヨルダン川西岸の一部がパレスチナ民族政府の管理下に置かれ、 厳しい制限付きの自治を保障されることになった。
100年に及ぶ紛争を終結する唯一の方法は、イスラエルが国際法とアラブ‐イスラエル紛争に関する国連決議(194、242、その他)を遵守することである。 これらの決議は、イスラエルによる1967年のパレスチナ領土の占領を違法と見なし、イスラエルが占領を解くことを要求している。イスラエルによる占領を止めさせ、 占領が引き起こした問題すなわちパレスチナ難民問題やヨルダン川西岸およびガザ地区へのイスラエル人の入植などの問題を解決し、 その土地に住むパレスチナ人に自国民として統治と決定を行う合法的な権利を与え、彼らが自分自身の未来を気にかけ自由を得ることを可能にする時、 パレスチナ‐イスラム戦争は終結するのである。
          
Q. パレスチナ国家案とは何か?
A. 東エルサレムを含むヨルダン川西岸とガザ地区から成るパレスチナ国家は、1967年以来イスラエル軍により不法に占領されてきた。 1988年に、パレスチナ民族会議(パレスチナ議会)は、ガザ地区とヨルダン川西岸に関して東エルサレムを首都とするパレスチナ国家案の宣言を行った。 この宣言は、国連決議242とアラブ‐イスラエル紛争に関連するその他の国連決議を基にしたものである。この提案国家はまだ独立を勝ち得ていない。
1993年にイスラエルとの間に平和協定が締結された後、ガザ地区とヨルダン川西岸の一部がパレスチナ民族政府(PNA)に返還されたが、 60%を占めるその他の地域については今日でもイスラエルが軍事的に占領している。
パレスチナ国家の宣言は、パレスチナ人の独立とイスラエルによる占領の終結を宣言することである。イスラエルは今日でも、 占領政策の終結とPNAに対するガザ地区と東エルサレムを含むヨルダン川西岸の返還要求に応じていないばかりか、 この地に対するユダヤ人の不法な入植が拡大し続けている。

Q. 東エルサレムおよび西エルサレムとは何か?
A. 1948年以前は、エルサレム市は、アラブ‐パレスチナ領土における英国の統治下に置かれた完全なアラブの都市であった。 ユダヤ人とアラブ諸国の間に起きた1948年の戦争の後、イスラエルが建国され、エルサレムの西側部分を占領した。 すべての聖地はエルサレム市の東にあり「旧市街」と呼ばれている。「旧市街」は門(いくつかの門は閉鎖されている)のある巨大な壁で囲まれている。 東エルサレムは1948年から1967年までの間、ヨルダンの管理下に置かれていた。
1967年になると、イスラエルはアラブ人を攻撃し市の東側部分を占めるヨルダン川西岸、ガザ地区およびその他のアラブ人領土を占領しようとした。 以来、エルサレム市全域が占領されるようになった。
1967年の占領開始後、いくつかの国連決議および国際法(共に占領を違法とする立場をとる)により、イスラエルが占領を解き、 戦争勃発以前の状態まで境界線を戻すこと、およびそこから生じたパレスチナ難民や1967年の占領時に入植したユダヤ人の問題などを解決することが要求された。
国際法と国連決議によれば、東エルサレムとは1967年にイスラエルに占領されたヨルダン川西岸の一部を指す。従って東エルサレムは解放されるべきであり、 またパレスチナ人に返還されるべきである。近年の平和プロセスの間に、イスラエルは東エルサレムを分割し、 その一部をイスラエルに帰属させることを要求しているが、これはPNAの指導者、パレスチナ人、アラブ人、イスラム教徒には受け入れがたいものであり、 国際法と国連決議に反するものである。
イスラエルが「嘆きの壁」と呼んでいるのは旧市街の西側の壁を指している。しかしながら、そこはイスラム教の聖地の多くが位置する場所である。 事実、その壁はアクサモスク(イスラム教の世界で最重要な聖地)敷地内の片側にある。アクサモスクは、壁に覆われた旧都市の北側の境界線の一部である。 ユダヤ人は、この壁が数千年前に滅んだソロモンの神殿に関する唯一の残存物であると主張している。ソロモンの神殿は紀元前60年頃に完全に破壊され、 現アクサモスク構内から除去された。現在の壁は旧市街の壁の一部をアクサモスクに結合したものである。 アラブ人やユダヤ人やその他の民族による数多くの考古学探検隊により、この壁はイスラム歴CE650年以後に建設されたものであり、壁の一部が後年再建されたことが確認されている。
パレスチナが英国に委任統治されていた1930年、ユダヤ人にとってこの壁は聖地であり、礼拝のために管轄したいと言う要求があった。 裁判では、壁が法的にアラブ人の所有物であり、アクサモスクの壁の統合された一部であることが示された。
イスラエルは、1967年における占領から今日に至るまで、上記要求の考古学的証拠を探し求めている。 ユダヤ人考古学者であるZeef Herzogはその論文の中で、考古学的証拠が見つからないため、あらゆる古書に出てくる歴史を調査していると述べている。 このような理由から、この壁は元来アクサモスクの一部分であり、イスラム歴の時代から存在しており、ソロモン神殿とは何の関係もないことが証明されている。
アクサモスクと西の壁については、「al-Esra w al-Mearaj」の挿話により結び付けられている。 イスラム教では、ヒジリ年(イスラム暦による)の最も偉大な時代の一つに、預言者モハメッドが夜にアルクォッズ(エルサレム)を訪れた。 その場所に着いたモハメッドは、彼の馬(アルボラク)をアクサモスクの西の壁につないだ。(このため、「西の壁」または、「アルボルクの壁」と呼ぶようになった。) 預言者モハメッドはすべての預言者のためのイマーム(導師)としてアクサモスクで礼拝を行った。これは、モハメッドがアラーの最後の預言者であり、 すべての預言者の指導者であることを意味する。預言者モハメッドは天国に昇り、アラー(「神」)と会った。天国でアラーは彼にイスラム教徒が毎日5回の礼拝を行うことを命じたのである。
アクサモスクはイスラム教徒にとって第1のケブラ(イスラム教徒が礼拝する方角)であったが、その後アラー(「神」)が預言者モハメッドにケブラをメッカへ変更するように命じた。 従って、それまでの17ヶ月間、アクサモスクは第1ケブラであったのである。 このエルサレムにおける聖地については、イスラム教徒がシャリア(イスラム教典)の一部と見なす預言者モハメッドのシリア(預言者モハメッドの言葉と行動)において頻繁に述べられている。
聖なるコーランには、「al-Esra wal-Mearaj」とエルサレムの挿話があり、現在のアクサモスクには「遠くにある寺院」(アラビア語のアクサモスク)を意味する名前が付けられた。
          
Q. アラブ諸国はイスラエルの生存権を認めているか?
A. すべてのアラブ諸国は、パレスチナを2つの国に分ける国連決議に基づく平和戦略を採用した。
イスラエルは1948年の戦争で1947年の分割案で獲得した領地よりさらに広大な領土(パレスチナの78%)を奪い、1967年には、残りのパレスチナの領土すなわち東エルサレムを含むヨルダン川西岸とガザ地区を占領した。アラブ諸国とパレスチナは、 1967年のイスラエルによる占領を違法とする国連決議242の履行を要求し、イスラエルが占領地を解放して境界線を1967年の戦争以前の状態に戻すことを求めている。 同時にパレスチナとアラブ諸国は、パレスチナ難民問題とアラブ‐イスラエル戦争の別の側面に関する国連決議の履行も求めている。
パレスチナを含むすべてのアラブ諸国は、上記の要求に反して存在し続けるイスラエルの権利を容認している。アラブ諸国の中でもエジプトやヨルダンなどは、 すでにイスラエルと平和協定を締結している。また、モロッコ、カタール、オマーン、モーリタニア、チュニジアなどはイスラエルと一定の外交関係を維持している。

Q. パレスチナ人のいる現在の地域は国家として適しているか?
A. イスラエルは、第1段階の平和協定における和平会談に基づき、ガザ地区の大部分とヨルダン川西岸の一部から軍隊を撤退させている。
ガザ地区には、今でも約3千人が生活するユダヤ人入植地と彼らを護衛する同数またはそれ以上の数の兵隊が居住している。
ヨルダン川西岸には「A地域」と呼ばれる地域がある。これは完全にパレスチナ政府の管理下にある人口密集地域である。「B地域」と呼ばれる別の地域は、 部分的にパレスチナによる管理が実施され、イスラエルがセキュリティを管轄している。「C地域」はイスラエルが完全に管轄する入植地であり、 アラブ人の町とそこへ至る主要道路および入植地から成り立つ。パレスチナ人の所有するヨルダン川西岸地域の割合は約40%を下回り、 まとまった地域を形成していない。イスラエルの占領地域の間に島のように存在している。
ガザ地区と東エルサレムを含むヨルダン川西岸は全体としては小さな地域であるにもかかわらず、イスラエルはその返還を認めていない。
現在行われている和平会談において、我々はイスラエルを通過する、ガザ地区やヨルダン川西岸への退避ルートを獲得しなければならない。 すでに昨年そのような退避ルートが開設されたが、依然としてイスラエルの管轄下に置かれており、事前に通行許可証が要求される。

Q. パレスチナ人はなぜアルアクサ・インティファーダを始めたか?
A. パレスチナ人は33年以上の長期にわたりイスラエルの占領を受けている。歴史的なパレスチナの領土の78%が1948年以来ユダヤ人に占領され、 そこにイスラエル国家が建設された。それに加え、東エルサレムを含むヨルダン川西岸とガザ地区も1967年にイスラエルが始めた戦争の結果、イスラエルにより占領された。
1948年から1988年に至る期間、パレスチナ人はパレスチナをイスラエルによる占領から解放するための軍事闘争を行ってきた。 1988年には、1967年に占領された領土の返還と引き換えにイスラエルの存在権を認める平和戦略を採用した。
我が国は武装していない。そのため、国民は無差別な手段で怒りを示そうとする過程で、投石で占領軍にいくらかのダメージを与えることに気付いた。 このような手段は1987年における最初のインティファーダで初めて用いられた。インティファーダは7年以上も継続し、結果的に和平会談が実現した。 インティファーダには、デモンストレーションやストライキなど他の防御手段も存在する。
パレスチナ人は、行進やデモンストレーションに参加したり、投石やイスラエル国旗を焼くなどの手段でイスラエル軍兵士 (イスラエル軍には警察や暴動取締警察を含まない)と衝突しながら、イスラエルの継続的占領政策に抗議を行っている。 イスラエル軍はそれに対する対抗手段として、実弾、ゴム弾、催涙ガス、国際バンド・ダムダム弾などで報復してきた。ダムダム弾は人の体内で炸裂し、重傷を負わす爆弾である。
アムネスティ・インターナショナルのホームページhttp://www.amnesty.org/を見ていただきたい。 その中のレポートでアムネスティ・インターナショナルは、イスラエルが兵士の生命に直接的な危険がない状況において実弾を使用することを非難している。          

Q. 子供がなぜインティファーダに参加するのか?
A. 30人以上のパレスチナ人の子供が、学校からの帰宅途中にイスラエルの狙撃手により攻撃され、頭部と心臓部に実弾を受け死亡した。 この事件の詳細に関して筆者のウェブサイトには2つの挿話が紹介されている。 (サーミ・アブジャザルとモアヤド・ジャラウィシュは学生かばんを背中に背負った姿で殺された。確認のための写真掲載)子供に対する類似した事件が多発しているが、 その1つは2000年10月20日に起こった。男の子が自宅のベランダで遊んでいる間にイスラエル・スナイパーの狙撃により実弾を受け、死んだ。 これ以外にも学校から帰宅途中の子供が殺されたり、平和な葬儀に参加している子供が殺される事件がますます増加している。
ユダヤ主義のメディアが伝えるように、父親や家族がインティファーダへの子供の参加や子供を人間の盾として利用することを奨励することはない。 そんなことをする父親は世界中にいるはずはなく、動物でさえそのようなことはしない。
この危機においてパレスチナ国家全体がPNAと同じ行動をとる訳ではなく、大多数はPNAのインディファーダへの対応を否定している。 インティファーダはパレスチナ人が占領を終結させるという目的のためだけに開始した。最初にインティダーダを始めたのはPNAではなく、 インティファーダは今日PNAにさえ制御できず、如何なる手段を介しても止められなくなっている。
イスラエル軍に対する抗議を行い、彼らと衝突する人々は、自由に対する自然の欲求に基づいて行動している。 子供達は登校または下校中に両親の許可を得ずにデモ/または葬儀に参加し、それに対してイスラエル軍が子供に重砲で攻撃し、戦争に変形されるのである。
ここでもう一度明確にしたいのは、パレスチナ人の家族は自分の子供を大変愛しており、何とかして彼らを守ろうと努めていることである。 子供が負傷すれば、その家族は大層悲しみ、子供が死ぬくらいなら自分が代わりになりたいと考えるのは確かである。にもかかわらず、 子供達は占領のない世界中の子供と同様に自由の中で生活したいと考える。彼らは学生かばんを背に死んでいくことなど望まないし、人生を楽しみたいのである。 そのため、パレスチナの子供達はすべての国民同様に、パレスチナの自由を確立し、独立国家を建設するために自分の命さえも投げ出す覚悟ができているのである。 自由のための戦いはパレスチナ人の宿命である。そのため、我々は正義に対する世界からの支援を求めている。
パレスチナの狙撃兵は、イスラエルのプロパガンダが言うように子供を人間の盾に使うことはない。彼らはパレスチナの主要都市の入り口を守り、 イスラエル兵の入場を防いでいる。パレスチナの狙撃兵はインティファーダの最初の月にイスラエル人を殺したことはなかった。 事実、イスラエル側から負傷者についての話は聞かれない。国際メディアは占領地で起きていることに対し誤ったイメージを与え、 これらメディアの所有者がシオニストのユダヤ人であるため事実を曲げているのが実情である。
パレスチナ人によるわずかな銃の乱射によりイスラエルがダメージや損害を受けることはないにもかかわらず、 イスラエルはパレスチナ人の町や村に戦車やヘリコプターで夜間攻撃を行い、多数の負傷者や死者を生んでいる。 それでもイスラエルはこれを平等な戦いであると言う。
パレスチナ人の子供が抗議のために街頭に出でることを望むものは誰もいない。我々は彼らが学校や家の中でおもちゃと遊び、勉強をすることを望んでいる。 同時に、家族の者は子供が街頭に出ることを許可しないということも事実である。 ユダヤ主義のメディアが言うように家族が子供をインティファーダに参加させるようなことはあり得ない。 さらに付け加えれば、子供も家族も占領軍による統制の元で欲求不満に陥っていることから、街頭に出て占領軍に対する抗議を行い、 そのために命を失う事態が起こるのである。
すべてのパレスチナ人は自国の自由を得るためには喜んで命を投げ出そうとする。

Q. パレスチナ人は何故インティファーダで武力を行使するのか?
A. パレスチナ人は33年にわたる長期の占領政策の下で、武力により権利を奪われてきた。それ故、パレスチナ人はこの権利を奪回するために、 あらゆる手段を用いて占領軍を攻撃する権利を保有する。イスラエル軍は実弾、催涙ガス、ゴム弾、 国際バンド・ダムダム弾を用いてパレスチナ人の抵抗者や投石者に報復するが、彼らはイスラエル兵の生命を脅かすものとは言えない。 アムネスティ・インターナショナルのホームページおよび筆者のホームページに掲載されている2000年10月19日付けのアムネスチ・インターナショナルのレポートを参照してほしい。上記の筆者の言葉が確認できるはずである。
パレスチナ人は平和と正義を求める。そのため平和プロセスを選び、 イスラエルに対しては歴史的なパレスチナ領土の78%において居住する権利を与えるところまで譲歩している。 それに対し、イスラエルは1967年に不法に占領した領土の残りの22%をも要求している。この7年間、イスラエルは平和のための協力を推進しようとせず、 パレスチナ領土に対し不法に軍事的占領を継続してきた。
我々は国際法と国連決議に基づく平和的解決を求めている。しかしながらイスラエルは平和と正義を望まない。 この事実は誰の目から見ても日に日明らかになって来ている。
虐殺はイスラエルが先に始めたものであり、イスラエルだけが停止することができる。 彼らは、デモに行ったという理由から14人のイスラエル国籍のアラブ系ユダヤ人を殺害したこともある。
イスラエルが兵士の命に直接の危険がない場合にも広範囲な殺人兵器を使用することについては、 アムネスティ・インターナショナルのアルアクサ・インティファーダに関するレポートを参照してほしい。 このレポートでは、イスラエル軍によるデモの取締りにおいて軍戦略が用いられていることを報告されている。 さらに、イスラエルがパレスチナに対して過度の武力行使を非難する国連決議についても参照してほしい。

Q. パレスチナ難民問題とは何か?
A. パレスチナ難民問題は和平会談の中心議題の1つである。1948年の戦争で370万人ものパレスチナ人が祖国や家や財産を失った (現在はイスラエルになっている)。彼らはイスラエルへの恐怖から家を捨て去り、自分と家族が安全に暮らす場所を探さなければならなかった。
国連はパレスチナ難民が自分の故郷や自分の家に帰ることを許可し、帰国を拒否する者に対しは賠償金を支払うようイスラエルに命じる決議を数回にわたって行った。 イスラエルはこれらの決議の履行をかたくなに拒否し続けている。
1967年にパレスチナの領土を離れたそれ以外の難民についても、パレスチナ国家が宣言された後に帰郷させるべきである。
イスラエルは和平会談により10年間に1万人を超えない範囲で段階的にパレスチナ人の帰国を認めることを受け入れたが、 それらの人々へ賠償金と責任については否定した。また同時に、パレスチナ国家として提案されるヨルダン川西岸とガザ地区に彼らが戻ることに対しては拒絶した。 この問題はいまだに未解決のままであり、パレスチナ政府は国連決議を基とする公的な見解をとっている。         

Q. パレスチナ人はなぜメディアによる広報活動に敗北したか?
A. アラブ諸国が広報活動において失敗した理由は、アラブ各国政府によるメディアの規制であった。パレスチナ人は活動的であるが力量と資金力が不足していた。 パレスチナ人はインターネット上における活動を開始しているが、真実を知り、知識を深めようとする層から多くの反応を得ている。
パレスチナにおける現状に対する米国メディアの報道は、純粋なユダヤ主義者がオーナーであるという理由から間違いなくイスラエルを援護する立場をとっている。 これらのメディアはイスラエルの利益のために真実を曲げようとする。この件に関して筆者は、 ノーマン・ソロモンというユダヤ人ライターによる記事を読んだことがある。この記事については「ラインの間で」の項で紹介されているので読者は読んで欲しい。         

Q. パレスチナの古代歴史はどのようなものか?
A. パレスチナの土地において初めて認識された人々はカナン人であった。彼らはアラビア半島からやってきたアラブ人であり独自の言語と文化を所有していた。
パレスチナはすべての時代においてパレスチナ系アラブ人の国であった。ヘブライ人はBC3000年以降にエジプトからやって来て、 短い年月の間王国を築いたにすぎない。その後、他の国家が彼らの王国を滅ぼし、その土地を支配した。 ヘブライ人のパレスチナ居住はイエスキリストが誕生した130年後に終わりを告げた。アラブ人は西暦638年からこの地方を支配し、今日に至っている。 アラブ人がイスラム教を広め、パレスチナ人から学ぶと同時に彼らに教育を施すために早くから他国からパレスチナに移り住むようになった。 各地のパレスチナ人の中からイスラム教に改宗するものが現れた。この宗教は、すべての人々に広範囲な選択を与えたため、 パレスチナにはかなりの数のキリスト教徒が存在しているが、それらの人々はイスラム文化とアラビア語になじんでいる。
今日アラブ諸国として知られるすべての国家は1つのイスラム帝国支配の元にあり、それぞれが首長国またはイスラム帝国の首都と関係を持った国家と見なされている。

Q. パレスチナの現代史はどのようなものか?
A. 19世紀の終りから20世紀の初めにかけ、パレスチナ(すべての隣接アラブ諸国同様に)はイスラム帝国の中の一国であるトルコ(イスラム教徒)の支配下に置かれた。 首都はイスタンブールであった。第一次世界大戦の間、アラブ人はトルコ帝国から独立して自国をシリア、パレスチナ、サウジ、イラク、およびエジプトなどの首長国に建設しようとした。 このため、彼らは、アラブ首長国が第一次大戦後にイスラム系トルコ帝国から独立するのを支援するという約束に反し、戦時中に英国と連携することに合意した。戦争が終わると、 英国とフランスがすべてのアラブ諸国を委任統治制度の元で支配することになった。英国はパレスチナに対する委任権を取得した。 1917年には、アーサー・バルフォア(大英帝国大臣)が全世界のユダヤ人に対し、パレスチナにユダヤ人国家を建設すること、 そのためにパレスチナに移住する便宜を図るための支援を行うと書面で公約した。それよりもいち早く、1897年にユダヤ主義者運動会議が開催され、 パレスチナにユダヤ人国家を建設することが目標に定められるやいなやユダヤ人による移住が始まっていた。 ユダヤ人は、英国の委任による大きな支援と便宜により大集はパレスチナにやって来た。この制度によりユダヤ人は政府の土地を購入し、 パレスチナ人の所有する広大な土地を没収してキャンプや農場を作ることが許された。 英国は同時にユダヤ人による軍を立ち上げ独自に組織させた。こうして、ユダヤ主義者の集団による軍隊が設立され、その後ハガナーその他がイスラエル軍の中核として働くようになった。
1936年になると、パレスチナ人は委任統治政策に反対してユダヤ人と対立し始めた。彼らは英国に自分達の権利を主張し、 ユダヤ人に対する土地の委譲やユダヤ人の合法/非合法的な移住、およびユダヤ人によるアラブ人の殺害を停止するよう英国に訴えた。
1947年になると、ハガナーなどのユダヤ人グループは、アラブ人の土地をさらに広域に奪取し、占領しようと戦争を仕掛けた。 ユダヤ人はアラブ人の村や家を襲い、400件もの虐殺を行い、数千人のアラブ系パレスチナ人を殺害した。 その結果、アラブ人は自分の土地を捨て他国へ移住することを余儀なくされた。一方、アラブ人はユダヤ人グループに立ち向かい、彼らを攻撃して自分の家族を守ろうとした。
1947年、英国はパレスチナ問題を国連に委ね、その決定を仰いだ。 国連は、パレスチナをエルサレムと国際ゾーンとし、アラブ人国家とユダヤ人国家に分割する国連決議181を採決した。 この決議はアラブ人よりユダヤ人により多くの土地を与えるものであったため、アラブ人はこの提案を拒否した。(アラブ人の人口はユダヤ人の数倍であった)。
1948年には、英国はパレスチナを去り、委任統治を終了することになった。同じ日に、ユダヤ人が独立国家を宣言し、 アラブ人はユダヤ国家の新たな創立に反対する前面戦争を開始した。イスラエルは戦争に勝利し、 パレスチナ人の領土(ガザ地区と東エルサレムを含むヨルダン川西岸を除く)の78%を占領した。 ヨルダン川西岸はヨルダンの管轄下に、またガザ地区はエジプトの管轄下に置かれた。
虐殺や戦争により、ユダヤ人の占領地に居住していた膨大な数のパレスチナ人が家を捨てて難民となり、ヨルダン、シリア、レバノンなど他のアラブ国家に移住した。
1967年、イスラエルはアラブ諸国に対し、もう一つの全面戦争 である「6日間戦争」を開始した。 イスラエルは戦争に勝利し、ガザ地区、ヨルダン川西岸、東エルサレム、ヨルダンの一部分、シリアの一部分、およびエジプトの一部分を占領した。 国連は、国連決議242を公布し、イスラエルの占領を違法とし、1967年に占領したアラブ諸国の領土を手放すようにイスラエルに要求した。 イスラエルはパレスチナ問題に関する国連決議を拒絶した。
言葉の意味を完全にすると、東エルサレムを含むヨルダン川西岸とガザ地区は国際法と国連決議により定められた占領地である。 米国でさえ、イスラエルが1967年に占領したすべての土地は占領地であり、イスラエルの一部ではないとするこの242決議を承認している。
パレスチナ人は、今日イスラエルが国連決議242に従って1967年に占領した土地を解放し、パレスチナ国家を作ることができるようにすることを要求している。 同時にパレスチナ難民問題やヨルダン川西岸とガザ地区におけるユダヤ人入植地に関する問題等に対する解決を要求している。
1960年代初頭に、PLOはファタハなどの一部のパレスチナ武装グループと共に民主主義同盟等を設立し、境界線を横切り、 内部から領土を解放してそこに自分の国家を作る権利を奪回しようとした。
1973年には、エジプトとシリアがイスラエルに対し開戦し、シナイ半島の一部の領土を占領から解放した。戦争はいくつかの国連決議により終結した。
1988年、パレスチナは国際法と国連決議242その他に基づく紛争の平和解決を追求し始めた。大きな譲歩により、 パレスチナはイスラエル人が1948年に占領したパレスチナ人の土地に居住することを容認した。その見かえりとして、 パレスチナはイスラエルに1967年以来の占領地(東エルサレムを含むヨルダン川西岸とガザ地区)を返還するよう求めた。 そこにパレスチナ国家を建設してイスラエルと平和に共存しようと考えたためである。他のアラブ諸国はすべてパレスチナのこの提案を支持し、 同時にイスラエルを承認して一部の和平会談を開始しようとした。
1993年9月13日の平和協定が締結された後、イスラエルはガザ地区の一部およびヨルダン川西岸の一部におけるパレスチナ人の限定自治を認めた。 今日、国連決議242に従い、東エルサレムを含むヨルダン川西岸とガザ地区を完全にパレスチナ政府の手に戻し、 同時に370万人のパレスチナ難民問題やユダヤ人による入植問題やその他の問題を解決することが協議されている。
和平会談により多くの合意が得られ、現在PNA(パレスチナ民族政府)が支配している領土からイスラエルが撤退することに関する協議が進められている。
パレスチナ人の領土におけるパレスチナ国家には歴史的な権利が存在する。パレスチナ国家は、すべての国と同様、自分の利益のために自分の国家を建設する権利、 自由に対する権利、自己決定に対する権利などの三つの権利を保有する。

Q. 1948年以前にパレスチナ国家が存在したのかどうか?
A. アラブ人は、パレスチナが英国に委任統治される以前の1350年間、イスラム教のオスマントルコ帝国の支配下にあった。 20世紀以前には、独立したアラブ諸国は存在していなかった。すなわち、それらはイスラム帝国の下にあるアラブ首長国連邦であった。 第一次世界大戦と第二次世界大戦の後、アラブ諸国はイスラム・オスマントルコ帝国より独立し、近代国家を建設した。 英国の支援によるユダヤ人のパレスチナへの移住がなければ、パレスチナも国家を建設していたはずである。

Q. 1948年から1967年の間にパレスチナ国家が存在しなかったのはなぜか?
A. 1948年から1967年にかけて武力によるパレスチナ全土の開放を目指す明確なアラブ戦略が存在した(イスラエルに対する報復として)にもかかわらず、 この戦略は不運にも失敗した。当時、パレスチナは歴史的パレスチナのすべての領土 (1948年にイスラエルが占領した領土および東エルサレムを含むヨルダン川西岸およびガザ地区)から成ると考えられていた。 このため、エジプトとヨルダンは、ヨルダン川西岸およびガザ地区にパレスチナ人の国家を建設することに反対し、 残りの領土がすべて解放されるのを待つべきであると主張した。
1988年、パレスチナ人は武力で全土を開放することは現時点で不可能であると悟り、平和戦略を検討した。すなわち、 イスラエルの居住権を認める代わりに、国連決議と国際法に従い、占領された領土の解放を要求した。占領地は武力により1967年以来占領が続いていた。 今日に至るまで、イスラエルはガザ地区と東エルサレム全体を含むヨルダン川西岸における不法な軍事的占拠を止めることを拒んでいる。
東エルサレムを含むヨルダン川西岸とガザ地区を占領地と見なしているのはアラブ・イスラム諸国のみではない。 国際法とそれに関連する国連決議を初めとする全世界(米国を含む)、さらにはイスラエルでさえもこの事実を認めている (イスラエルはこの領土を「行政管理地域」と称して特別法の元で管理し、イスラエルの一部とは見なしていない)。

Q. パレスチナ人はなぜイスラエルに対して武力を行使するのか?
A. パレスチナ人は1967年以来、イスラエル国防軍による不法な軍事的占領を受けている。 その結果、パレスチナ人は戒厳令下に置かれ、自由の権利を奪われている。国際法と数多くの国連決議によればイスラエルの占領は違法であり、 即時停止されなければならない。パレスチナ人には自己の自由のためにあらゆる方法による戦いを行う権利がある。 つまり、非占領民族にとっての武力闘争は合法的である。アラブ系パレスチナ人は公式にイスラエルとの戦争下にある。 イスラエル軍は占領地に住むパレスチナ人を日常的に殺害しており、彼らの基本的人権を無視している。 また、イスラエルは国際法や194、242などを含む国連決議に基づくパレスチナの平和のための提案を拒否している。
パレスチナ人はイスラエル軍や、占領地やイスラエル内部に住むユダヤ人入植者と戦う権利を持つ。 パレスチナ人は一般市民の殺害を絶対に容認しないし、そのような攻撃は合法的であると認められない。 占領地に住むユダヤ人入植者は武装しているし、イスラエル軍はさらに危険な存在である。こうしたイスラエル軍の占領地における存在も本来は違法である。 以上の理由により、パレスチナ人はイスラエル軍への攻撃を合法的であると見なしている。

Q. パレスチナでは誰が最古で最長の歴史を有しているか?
A. アラブ系パレスチナ人は、パレスチナにおいてAD638年から今日に至る最古で最長の歴史を有する民族である。パレスチナ地方に居住した最初の民族はアラビア半島からこの地に移り住んだカナン人であった。近代に入ると、ユダヤ人が1900年以降にこの地に移住し始めた。
パレスチナに移住したユダヤ人社会を国家とは見なすことは不可能である。彼らは数十種類の言語を用い、大部分はヘブライ語を話すことができなかった。 また、その国籍は無数と言ってよく、共通の歴史を持っていなかった。 つまり、彼らは異なる種類の民族であり、唯一存在する共通項はユダヤ教を信仰していることだけであった。 一方、アラブ系パレスチナ人はアラビア語という共通の言語を持ち、大多数がイスラム教を信仰している(一部にキリスト教徒とユダヤ教徒が存在する)。 すべての民は1400年以上にわたる歴史を共有し、同一の伝統と文化に根ざしている。

Q. アラブ諸国はなぜアラブ系ユダヤ人にイスラエルへの移住を強制するのか?
A. ほとんどのアラブ系ユダヤ人は自分の意思でイスラエルへやって来て、彼らの言う「約束された地」に居住した。 全世界に散らばったユダヤ人は、必ず同胞の近隣に居住し、他の民族とは行動を共にせず、地域社会に参加しようとせず、玄関先で訪問者を閉めだす。 これは、ヨーロッパにおいても同様であった。このような理由から、ユダヤ人は開かれた地域社会に住むことができることを願い、躊躇することなくイスラエルにやって来たのだ。
今日においても、アラブ諸国にはアラブ系ユダヤ人が住んでおり、彼らは他の市民同様の完全な権利を与えられている。 彼らのある者は、モロッコのモハメッド国王のアドバイザーやバーレーンのユダヤ人議会メンバーなど政府機関の高い地位に登用されている。
イスラエルは、独立宣言の日に「帰国法」すなわち、世界中のユダヤ人がイスラエルに戻り、イスラエル人として市民権を与えられることを定める法律を公布した。 ユダヤ主義の指導者とイスラエル政府はすべてのユダヤ人によるイスラエルへの移住を呼びかけ、黒人系ユダヤ人(Flasha)とロシア系ユダヤ人に対しては移住のための費用を提供することもあった。

Q. イスラエルは中東で唯一の民主国家であるというのは本当か?
A. イスラエルによる民主主義の事例は以下のとおりである。
*軍事力による他国の領土を占領するなどの国際法を無視する行為
*数え切れないほどの国連決議に対する遵守の拒絶
*アラブ系イスラエル人への差別
*イスラエルで行進やデモがあったという理由から、数日間に13人ものアラブ系イスラエル人を殺した行為
*黒人系ユダヤ人(Flasha)に対する差別政策。彼らの医療を分院で行い、彼らの献血を拒否し、彼らをイスラエルの極貧地域に住まわせ、 政府機関の主要な地位に登用しない。
*1、2(Shas、ロシア系ユダヤ人政党、アラブ人政党、その他)を除くイスラエルの全政党は、宗教および/あるいは民族種だけを基盤としており、 政治心情を基盤とすることはない。
*少数党は常に活動が制約され、他の政党との連携により代償を払うことを余儀なくされている。
*同胞によるラビン首相の暗殺
*ヨルダン川西岸とガザ地区の占領地に数千人の入植者を移住させ、武力でパレスチナ人を殺害し、その土地や家を没収する。
*パレスチナ人抑留者に対する拷問手段の合法化
*公正な裁判や起訴を行わずに数年間にわたり抑留するなどの措置
*数百人の家の破壊とその後の建築不許可などの措置
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